パンの歴史 

    パンの発祥と発展
  パンの歴史は古く、原型となる「無発酵パン」の発祥は紀元前6000年ほど前、
  バビロニア(メソポタミア文明)の中心地あたりでした。
  この地方に野生の麦が多かったことに起因するようです。
  当時のパンは小麦粉と水を練ったものを焼いた平焼きパンで、現在のような
  膨らんだ「発酵パン」が誕生したのは、練ったものをそのまま放置しておいたら
  何故か膨らんでいたと言う偶然の産物だとされています。これは、自然の酵母が
  パンの種に入り込んだ為だと思われますが、最初は悪魔の仕業と思われていたそう
  です。
  (このためか、ドイツでは今でもパンを焼く時に十字に切る風習が残っているようです)
  エジプト人はこの酵母の働きを発見し、種入りパンを作る技法をあみだし、続いて
  パンが平均に焼けるようなハチの巣形オーブンを開発しました。

  エジプトで発明されたパンは古代ギリシャに伝わり、ギリシャ文明の繁栄と共に
  発展していきました。
  ギリシャ人は色々なパンを作り種類も増えていきました。バター、チーズ、ハチミツ
  スパイス、果物、ミルクなど入れたパンを食べていたようです。 
  この頃パン職人たちはマゲイロス(=粉を捏ねる人)と呼ばれ、一つの職業として
  認められるようになり、上流階級の人々にはお抱えパン職人がいたといいます。

  紀元前168年にマケドニアの戦いで勝利したローマ軍は、パン職人を奴隷にして
  自国に連れ帰りました。パンはローマ帝国と共にさらなる発展をし、人々の生活に
  浸透していきました。
  ルネッサンス時代にはヨーロッパ全土に伝わり、各国特有のパン文化がつくられる
  ようになっていきました。スペイン・ポルトガルを中心に大航海時代が始まると、徐々に
  世界に伝わっていきました。

  これらのパンづくりも、やがて世界の工業化と共に大きく変化していきました。
  第一次世界大戦の末期、ドイツの画期的な酵母の発明がありました。戦後の食糧難で、
  ドイツは不足する砂糖のかわりに「樫の木」の代用糖を使っていました。その廃液と化学物質
  を培養基をして酵母を作ることを発見したのです。この酵母は、パン生地の発酵力が強く。
  機械で大量につくるのに最適でした。イーストと呼ばれたこの人工酵母は、またたく間に
  世界中に広まっていき、現在大きなメーカーがつくるパンのほとんどはこれを使ったものに
  なっています。

  日本のパンの歴史は弥生時代に小麦と共に「蒸餅」や「焼餅」という形で既に中国の
  遣唐使によって長安から持ち込まれた記録があります。
  ここで言う西洋の「発酵パン」は1543年ポルトガル人が種子島に漂着した時に鉄砲や、
  キリスト教と共に伝えられたとされています。
  その後、鎖国によって日本でのパンの普及は一時中断されてしまいます。

  日本人の為のパンが作られたのは、海外からの開国の要求や国内の動乱の中
  1840年に中国で起こったアヘン戦争がきっかけでした。
  日本に対する外国軍からの攻撃を恐れた徳川幕府は伊豆韮山の代官 江川太郎左衛門に
  防衛策を命じました。江川はそこで、長期戦を想定し、兵士の兵糧の事を考えました。
  今までの兵糧米飯では炊く時の煙が敵の格好の標的になりかねません。それに比べ、固い 
  パンは保存性と携帯性の面で優れていると考えたからでした。
  そして、1842年4月12日兵糧パンが完成しました。このパン作りの指揮をとった江川は
  「パンの祖」として知られるようになり4月12日を「パンの日」とするようになりました。

  1854年に鎖国が解かれると、横浜、神戸など港町を中心にパンは広がりました。
  日本のパン食は、明治,大正の日本の近代化、洋風化とともに普及していき、
  昭和に入ると大量生産方式の技術導入による製造機械やイーストの発達等の技術革新
  を経て大きく発達しましたが、、第二次世界大戦により破滅状態になりました。
  しかし戦後、アメリカからの大量の小麦の放出により真っ先に息を吹き返したのはパン業界
  でした。米軍主導のもとで推進されたの学校給食パンの給食制度により、全国の児童が
  パン食に慣れ食習慣を転換させたことによって、一般家庭にも受け入れられ大いに普及
  しました。